①ハロウィンの喧騒に対し

丁度、前日はハロウィンであった。それは何ら私に経済的、機会的な利益を生み出さない一年の中の最も退屈な行事の一つである。私はテレビ越しに見た風景の中で現在を把握し、その光景に対し苦言を呈する。
「なんだよ、バカ騒ぎしやがって・・・。」

そんなことを言って自分は彼らがうらやましいのだろうか、それとも本当にそう思っているのかわからない奇異な感情を覚えた。
私は代替え的にDVDを借りて視聴し、眠りについた。


②好きな映画の話からその小説

さて、映画の「ファイト・クラブ」を観た人はいるだろうか。この映画はブラッド・ピットが出演している映画の中でもカルト的な人気を誇っている映画だ。何を隠そうこの私も、その少々マッチョな感じの映画に影響を受けて、髪形をタイラーダーデンに寄せたりもしたことのある。(顔の方は言うまでもないが・・)さも冴えない人(私のこと)がコスプレをして現実逃避しているかのようだ。昨今のハロウィーンでの騒ぎを観るようないたたまれない気持ちだ。



まず「ファイト・クラブ」をご存じでない人のために断っておくと、その物語は露骨に反社会的な映画である。物語の大枠は、市場社会で憂き目を見る男たち(その大部分は低所得な職業に就いている)が地下組織を結成し、それを率いるタイラーダーデンの足取りを主人公が追っていくという流れになっている。この物語のテーマは何かと言われても、それは何であるかを言い当てることは難しいが、マルクス主義のようでいてイデオロギー的にはアナーキズムな映画であることは間違いない。

この映画の一番の魅力は題名にもあるように地下組織が、ファイト(中島みゆきが歌う所の意味じゃなくて、文字通り戦うという意味)していく、少々暴力的な絵面と、さも革命家の様にタイラー・ダーデンが集団を率いていくシーンだと思う。

と、今まではこの映画の魅力を悠々と語ってくることの多かった私は、最近になってそのもととなる小説を読んでいないことに気が付いた。つまり例えれば、youtubeで挙がっている本の紹介動画を観て、その内容を掌握したと思っている輩と何ら変わりないことに気が付いた。私は文章から受けるイメージを読み取ったわけでもなければ、その文章になんら批判的な目を向けないまま、鵜呑みにしまっていたのである。

しかし話は学問や研究の類ではない。
だからその味付けされた合成甘味料に舌鼓を打っていくらか酔った気持ちになればいいではないか。市場社会には単なる素材から私たちの心を躍らす料理をつくれるプロデューサーという料理人がいるくらいだし、この高度に合理化された市場社会で時間のかかる読書までして理解すべきものかどうかも疑わしい。
ただ私の傲慢ちきな見栄っ張りが「原作知ってるよ」の言いたさに、原作の芳香をも漂わせてきた。こういう時、私は先に解説系youtuberの動画を観ることでその誘惑を振り払うことにしているのだが、不幸かな、我が中田敦彦先生はそういった動画をアップロードしていない。。

悩んでいると、私の心の中では法廷所が開かれた。それぞれ検察側と弁護側の私がそれぞれ意見をかわし始め大審問が行われる。すると私の弁護側が見事に私の好奇心を守り抜いた。(大げさな言いようだな、おい。)
そう、私は結局この映画の元となったチャック・パラニュークによる「ファイト・クラブ」を買うことに決めたのだ。そして調べるとそれは中古でも600円はしたから結構プレミア的な価値があるのだろうか、と私の期待値は上がったが、実際に届いた本を読んでみると、一見、そこまで私の期待を満たすものではなかった。

理由としては以下の様である。まず具体的な描写が大いに省かれていて、少々観念的な小説に近いということ、そして散文のように語られる比喩表現が肌に合わなかったということがある。つまり私は知らず知らずのうちにハードボイルド作品のようなものを期待してしまっていたのであった。その点、私の映画への愛着が純粋な鑑賞的態度から遠ざけてしまっていたといっても過言ではない。

続けて、この小説の終わりは映画のラストとは異なる。映画ではマーラとの関係をやり直していく様に描かれるが、小説では、天国、に行く。そう天国。そしてハッピーエンドでない。現実への嫌気がさした所で物語は幕を下ろす。

③気付いたこと

しかし改めてこの様に記載していると、始めは前印象との乖離から、私の興味にそぐわないと思っていたこの小説も、段々と別な異彩を放っていくことに気付いてきた。
それはハードボイルド的な魅力というよりも、簡素な文により切れ味の鋭い読み心地と暗示に満ちた表現が暴力的に展開される魅力だ。(書いていて非常に漠然としているが、そう思ったのだから仕方ない。)

ここでふと鏡に映った私が見えた。
そこには映画の虜となりすぎて、充血した目の若い男が居た。
さも映画のヒーローになりきった若者の様にその人物は私をいたたまれない気持ちにした。

なるほどこういうことだったのか、と。なんだか合点がいった。
私はハロウィンの模様をテレビで見て、およそ自分の姿を彼らに投影し、嫌悪していたのではないか。

私の体は常に何らかのイメージに乗っ取られ、これ見よがしに批判を繰り返していたのではないか・・・。

そうか、もうそのような考えはよそう。

そう思った11月の朝ーー私はドン・キホーテの安物のコスチュームを脱いだ・・・。